Month3月 2017

イマドキ美人の賢い選択「友だちは用途・目的別にして正解」!

依存型友人関係、というものがあります。仲間と見なした限られた人たちとあらゆるシーンで一緒に過ごし、服装、持ち物などまでお揃いにしてみたり…。ママ友ワールドでは、よく見られる傾向のようです。

70代後半である私の母も若かりし頃は、気の合う仲間同士、子どもたちにお揃いの服を着せたり、お揃いのグッズを持つことが流行していた、なんて言いますから、今も昔もママ友気質というものは変わらないみたいですね。

そうした女性特有の現象を踏まえた上で、あえて私が提案するのは、「友だちは用途・目的別」で幅広く選ぶ、ということ。

心に余裕があり、表情にも心の豊かさの現れて魅力的な人というのは、概して広い交友関係を持っているものなのです。

八方美人というコトバは、世間的には、あまりよい意味合いでつかわれないようですが、四方八方に、いろいろなタイプの友人を持つことは大切だと思います。

「君子の交わりは淡き水の如く、小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し」という有名な中国の故事があります。聞き慣れない“醴”というのは、甘いお酒のようなもの。

簡単に言えば、賢い人の交友というのはごくあっさりしていて、つまらない人間ほどベタベタとあまったるい人間関係を好む、というような意味です。

交友関係は広く、浅く。それでいて礼節があればいうことなし。八方美人で十分。なんたって“美人”がついてますから。

「心を開いた人でなかったら、悩みなど絶対に打ち明けられない…」と思うかも知れませんね!

愚痴をきいてくれる人というのは確かに大事。しかし、できれば、あまり親しすぎない間柄の方がベター。

と言うのも、近しすぎる関係の人だと主観が入りすぎ、問題解決に繋がるアドバイスを与えることは難しいからです。

相談者は近隣在住でない方がいい。噂というものはどこからか当人や近しい人物の耳に入るもの。対立関係にある人や団体名などはできれば、イニシャルトークで伝えるのがよいでしょう。

まったく関わりのない人に悩み事の詳細を伝えることは、相当な労力を必要としそうですね!

何も分からない相手に自分の置かれている状況を事細かに説明しようとすることで、あなた自身もその悩みと冷静に向き合い、分析せざるを得なくなります。

結果として、解決の糸口も見つかりやすくなるものなのです。

その際、絶対に本人に漏れることはないと思っても、やはり口の硬い人物を選ぶに越したことはないでしょう。

「その先は?」と膝を乗り出し興味を覚えてくれるように、自身の悩みを面白く語ることができるとしたら、さほど親密でない人にでも打ち明けてみることは可能でしょう。

複数の人から幅広い考え方を募れば、偏った狭い見識だけで考えるより、よっぽど建設的なよい解決方法が見つかるはず!

今後いろんなシーンで出会うことになる人たちと、ほどよい距離感の関係をどんどん築いていき、その中からこれは!と思えるあなたの用途・目的別にフィットした友人を選んでみましょう。

いくら気の合う人でも、なにもかもその人に求めるのというのは無理な相談。あなた自身だってそうでしょう?どんなに大事な友だちでもなんでもかんでも頼りにされたらウンザリしてきませんか。

ウンザリ気分は必ずや表情に出てきます。お互いのためになりません。ストレスを溜めず、心豊かに過ごし、笑顔美人になりたいなら、断然、用途・目的別友人選びがオススメ!

恋は確かに人を美しくはするけれど、不倫で得た美しさは紛いもの

美しくなるための手っ取り早い方法。それは“恋をすること”。

恋をしている人は、もれなく美しい。古今東西、それはあきらかなことなのです。

女性ホルモンが活性化され、新陳代謝がよくなって、老廃物が排出され、お肌がきれいになる、という科学的な根拠のほか、恋する人によく見られたい!という一心から、メイクやファッション、身だしなみに気を配るようになったり…。

たったひとりの運命の相手を恋するのでも、誰かのファンになることでも、…恋は恋。その人のことを考えればこの世は薔薇色、哀しみも苦しみも乗り越えられる、生きる活力が湧いてくる、たとえ、それが不倫の恋であっても…。

不倫、それは人の道を外れることを意味します。一般的に、不道徳とされることではありますが、いま現在、不倫に法的罰則はありません。

それでも、「恋愛は個人の自由」と割り切る人より、双方とも赤の他人であっても、「不倫は許さない!」と考える人が多いということは昨今の芸能人・政治家の過熱する不倫報道もあきらかになりました。

私個人は、赤の他人の不倫も、友人の不倫も、もう十分に大人なんですから、どうぞ存分に、勝手におやりなさい、と思っているのです。

不倫をしている人というのは、恋をしている人同様、垢抜けて美しくなるものなのです。

そして、それはそういったことに疎い人、人の恋バナなどにさほど興味がない人、子どもまでもが、…「あれ、あのお母さん、あんなに美人だったっけか?」などと気づくものですから、美しくなっていることはあきらかなのです。

にも関わらず、私は、不倫で得るような美しさは“紛いもの”だと考えているのです。はっきりと、子どもにも分かる美しさであったとしても。

恋をすることは自由。心はなにものにも縛られない。法律から姦通罪というものがなくなったのはよいことだと思っています!

罰されるのは人妻絡みで、妻帯者と未婚女性の場合はお咎めなし。むしろ、推奨されていたふしまであり、あきらかに女性蔑視の法律ですしね!

不倫カップルのどちらか、その両方にパートナーがあった場合、また、子どもがあった場合…。その不倫の恋愛情事が、誰の傷みもなく、遂行されるものだとは考えにくいからです。

不倫でない恋だって、誰も傷つけていないという保証はないですけどね…!

しかし、不倫相手のパートナーに対する優越感、略奪という背徳行為に対する悦び、…そうしたものを背景に成り立つ美しさは、実に薄氷の上に成り立つ脆く儚い夢のお城のようなもの。

目に見えて、子どもにすら分かるものだとしても、本当に美しいものかどうかは疑問なのです。

ずっとくたびれて、やつれていたけれど、最近、不倫の恋をしているらしく、着るものに構うようになって美しくなった、と周囲で噂される知人に久々に会いました。

実は、…彼女が不倫の恋をしているのは私が知る限り、二度目でした。

前回も、「最近、○○さんは着るものに気をつけるように美しくなった」と評判だったのですが、私は、「彼女なんだか、似合わない服を着ているな。不倫相手の好みなのかな…」と思ってしまったのです。

今回もそうでした。「あ〜、やっぱり似合わない服を着ている!」と。

彼女は、周囲が「着るものに構わない!」と呆れてしまう、そっけないTシャツ、ジャージ姿で、趣味に没頭しているときの方が、よっぽど本来持つ美しさを引き立てている、と常々私は感じていたのです。

しあわせならば、それでいい。けれど、家族や友人を犠牲にして、築いた脆い城の寿命は、けっして長いものではないと断言します。

「もう二度と愛せない…!」パートナーとのひとつ屋根の住まい方

もうかれこれ10年以上、家庭内別居を続ける友人がいて、「なぜ離婚しないの?」と尋ねたところ、「会話が成立しないからよ」という驚きの答えが…。

離婚への手続きを進めるためには、十分な話し合いをする必要がある。“あ・うん”の呼吸でもって相手との十分な距離を取る(相手と絶対に近づかない、相手と同じ空間にいないようにする)ことに慣れてしまった自分たちには離婚の話し合いすら持つことができない。

それが離婚しないことの答えだそうです。

“あ・うん”の呼吸、というのは仲の良いおしどり夫婦に使うコトバで、家庭内別居の夫婦がつかうのはユニークですよね。

もう二度と愛せない相手とひとつ屋根で暮らすために、彼女のように、“もう何も考えない”というのも、ひとつの手だとは思います。

しかし、たいていはそこまで徹底的に相手を無視しつづけることは無理だと思います。実際に相手はそこにいて、息を吸い、動いているわけで、その痕跡だって残っているわけでしょうから。

彼女にしても、“もう何も考えない”と自分に暗示をかけているだけで、実際のところ、さまざまな思いが頭の中を駆け巡っているのでしょう。そこに、あえてフタをしているだけなのかもしれません。

それができるなら、それでいいのだと思います。無用な接触とトラブルを避け、それなりにおだやかな日々を過ごしているのだとしたら。

早々に離婚をして別の道を歩き始めた方がいいのは、夫婦間での暴力や罵り合いを間近で子どもが見ていて悪影響を受けてしまったり、暴力の犠牲になることから避難させなければならないと考えるケース。

または、子どもがおらず、双方が金銭的に自立していたら、一緒にいる意味もない、と判断し、さっさと離婚の道を選ぶかもしれません。

もし今、パートナーのことはもう二度と愛せない、と思い詰め、しかし、金銭的な事情、あるいは子どもの親権を考えたら、安易な離婚・別居は難しい、と考えていたら…。

なおかつ、部屋の中にはパートナーの存在の証がありありと残っており、100%相手の存在をないものとして無視して暮らしつづけることはできないとしたら…。

そのときは、「100歩譲って」とことん相手と会話をしてみて欲しいのです。「なぜ、私はここまでこんなに我慢してきて、その上、100歩も譲ってやんなきゃならないの!」と思うに違いないと思います。

仮にあなたが100歩譲ったところで、相手が100歩どころか1歩も譲ってないと考えるなら、100歩も無効です。今度は1000歩譲って下さい。どこまでも譲って相手が気分良く話し始めたら…。

それがチャンスです。けっして、途中で話の腰を折ったりしてはいけませんよ?あくまで聞き役に徹することです。

「何をしたいのか。何をして欲しいのか。何をされてイヤだったか…」あなたにとっては耳の痛いコトバかもしれません。もしかしたら、「え。そんなくだらないことなの?」と拍子抜けする話かもしれません。

思う存分、言いたいだけ言わせて、相手をとことんスッキリさせて…。ようやく、あなたの番です。

「私だってね…!」と言い返しますか?それは仲良し夫婦ですね。きっとこの先はひとつ屋根の下、ケンカしながら円満な家庭が築けると思いますよ!

言い分をすべて聞いて、「ああ、やっぱりやってらんない!こんなくだらないヤツだったんだ!」と気づくことができたら。さあ、これからはできるだけ、あなたに優位な方法で別れ話を進めましょう。

あなたの明日の笑顔のために…。

「子どものために…」がかえって毒に!?ストップ!子育てNG行為

子どもを置き去りに恋人の元に走ったり、パチンコなどのギャンブルに興じる…。そこまで行かなくとも、まとわりついてくる子どもそっちのけでスマホ操作に夢中…。そういう母親たちが、世間の非難の的になることは容易に想像がつきます。

少なくとも、わが子を愛し、大切に慈しみ育て、自己犠牲を払うことを厭わない母親が批判の対象となることはまず考えられませんよね?

しかし、実際に、世に言う「高学歴・高収入」の道にすすむ可能性が高く、それ以上に、夢を実現させ、自身の生き方に満足し、誇りを持ち、今のコトバでいうところの「リア充」で過ごしている若者の多くは、「親から手をかけられすぎた子ども」ではなく、ある意味放任に近い育てられ方をした子どもだった、という報告があります。

「放任に近い」というと、「放任とどう違うの?」という疑問が生まれてくるかもしれませんね!では、次の2つのケースをご紹介しましょう。

Aくんのお母さんは早起きが苦手で、Aくんは、朝食や弁当を自分で用意するようになった。帰宅後は学校や部活であったことなど母親と話す機会も多く、相談などもしやすいと言う。

Bちゃんのお母さんは、PTA活動やボランティアに忙しく、ほとんど家にいない。しかし、地域で母親が活動している様子を頻繁に目にし、友人・知人の多い母親はBちゃんの自慢でもあった。

Aくん、Bちゃんのお母さんはある意味、「放任に近い」状態かもしれません。実はこの二人、中・高生になった時点で成績が常に学年トップ3以内、部活動でも好成績を残し、さらには生徒会長を務め、学内外のイベントにも積極的に参加していたのです。

成績がよい上、何事にも積極的に参加する子どもというのは、ほんの一握り。

もちろん、地域の中で成績のよい子どもというのも相当数存在しますし、イベント大好き!お祭り大好き!という子どももたくさんいます。

しかし、その両方を満たすとなると、人数は少数に限られてしまう。その中の大多数の子どもが、AくんやBちゃんのお母さんのように、「さほど子どもに手をかけすぎなかった」親というのは象徴的です。

眠い目をこすりながら、お弁当をつくり、手の込んだ朝ご飯を用意する…。その方が世間的には「美しく正しい母親像」かもしれません。美しく、正しくはなかったけれど、帰ってきたAくんの学校であった話をゆったり聞き、受け止める、その余裕がAくんのお母さんにはきちんとあったのです。

Bちゃんは、自分の母親がよその母親のように自分だけを特別にかわいがっているようには思えなかった、と言います。しかし、よその子どもからも慕われている母親をみて、「ああ、この人はみんなのお母さんなんだな」と思えて嬉しかった、と言います。

大多数の子どもは、「勉強がキライで、行事の参加に消極的、自己評価が低い」傾向にあると言います。

そのような子どもの母親の多くが、いちばん最初に挙げたような「育児放棄」の母親ではなく、「わが子を愛し“過ぎ”、大切に慈しみ育て“過ぎ”、自己犠牲を払うことを“厭わなさ過ぎた”母親たち」であるということを是非知ってください。

子どもにとって本当によい母親とは? 自己犠牲が実はただの自己満足に過ぎないとしたら…? 再考してみるときかもしれません。

自尊感情の高い子どもの母親たちはたいてい、ゆとりがあって、他人に対してもとてもおおらかです。それが表情にもよくあらわれているようでした。

ママ友や仕事仲間からのやっかみや嫉妬と上手につきあう方法

ママ友や職場の同僚から、不当な扱いを受けたり、厳しく接されたり、自分に対しての陰口を言われたり…。

もとから、そういう性格の人だというなら諦めもつくけれど、自分以外の人とは友好的な関係を築いているように見える。自分にだけ、そのような態度をとられる理由に、思い当たるふしがまるでない。

そんなとき、「自分では気づかないだけで、実は私、あのひとに不利益をもたらすようなことを何かしでかしてしまったのだろうか…」などとあれこれ思い悩む必要はまったくありません!

コミュニケーションに難があると思えない人が、自分にだけつらくあたる理由、それは「嫉妬、やっかみ」に他ならないからです。

相手からの「嫉妬、やっかみ」攻撃をかわすのに、いちばんよい方法は、「あのひと、自分が持っていないものを持っている私のことが羨ましくて、妬ましくてしょうがないのね!ふふん」と開き直ってしまう作戦なのですが、…これはあなたにとっては、ちょっと難しいことかもしれませんね!

あなたがそのように、相手からの攻撃をさっさと受け流してしまえるようなサッパリ、キッパリとしたキャラクターなら、いくら妬ましく思っても相手はそんなネチネチした態度を取らないはずだからです。

相手はあなたを「痛めつけ」、「傷つく姿を見て」、自分の方が優位にある、立場が上なのだと安心し、自分の中に芽生えた、あなたに対する敗北感の憂さ晴らしをして満足しているからです。

どんなにネチネチした攻撃をされても、「は?それがなにか?」とあなたがまったく堪えていない様子を見てしまったら、ネチネチ攻撃による満足は得られませんから、せいぜいあなたに聞こえないよう、小声で陰口を言う程度で済まされるでしょう。それはそれで十分にイヤなことですけれどもね…。

自ら「強い女」を標榜するような女性は、「目には目を!歯には歯を!」「やられたらやり返す!倍返しだ!」とばかりに今度は自分が相手を攻撃する方向に出るかも知れません。

もし、あなたにそういう、強いお友だちがいたら、「黙ってないで、アンタもやり返しなさいよ!」なんて言われるかもしれません。

しかし、これは相手にとって逆効果。同じ方法で応戦すれば、相手もさらに、とエスカレートし、火に油を注ぐ結果になること間違いなし!

それどころか、そんな意味不明の戦いになだれ込んだあなたの表情はどんどん険しくなり、心も荒廃し、ブスへの道へ真っ逆さま!…なんてことにもなりかねません。

「強い女」を気取るのは、「繊細な女」であることの裏返し。相手にキツイ態度を取る人は、実際には脆い人であることが多いもの。

頑健なボディと、相手を一撃にする拳を持つ人は、武器をチラチラさせなくても相手が逃げていきます。

ひよわなカラダ、ネコパンチほどの威力もない拳の持ち主は、「強い相手」を前に、まず、飛び道具をちらつかせて自分の身を防御するしか術がないのです。

あなたにやっかみや嫉妬を感じている人は、あなたを「自分に向かってくる強い敵」とみなし、強いコトバや卑怯な態度という飛び道具をちらつかせ、自分の身を防御しているに過ぎません。

そうした相手にあなたがとる態度はひとつ。必要以上に目を合わせない。目が合いそうなら、目尻を下げて微笑む。

微笑みは最強の武器。視線をぶれさせ、相手の憎しみに燃えた目を真っ正面に捉えてしまうことから避ける効果もあります。

あなたの予想外の微笑みに、相手は「なぜ?」と戸惑い、勝手にあれこれ妄想を膨らますことになるでしょう。それによって、しばらくは休戦状態がつづくはずです!

老若男女を惹きつける美しさとはココロからにじみでる自信のこと!

~魔法の心磨きレッスン~内面から美しく綺麗に!をここまで読んでいただき、ありがとうございました。

真の美しさとは何かということが、ご理解いただけたでしょうか。

レッスンの初めは笑顔のつくり方についてを学びました。次は、睡眠不足をもたらすストレス解消法について、つづいてダイエット不要論を、表面的な魅力でなく人間的な魅力を持ちたいということ…。

多少の腹黒さ、毒も、ときには有用であるということ。もっとトークが弾む方法について、ストレスを解消し美肌に繋がる涙活のこと…。

どんなに拭いさっても、いつのまにか身の内に沸き上がってコールタールのように張りついてしまうドス黒い感情の飼い慣らし方も学びましたね。

人を惹きつける豊かな喜怒哀楽の表現方法、ありのままの自分を否定しない方法、心地よい交友関係だけでなく、自分を否定するような人の意見にも耳を傾けることは実はたいへん有意義であること…。

許容範囲が広いことは大事であるということ、食事や睡眠同様、欲望が大事であること…。

それらすべてが、身の内に確かな自信を宿すということに繋がっていました。

真の美しさとは、顔の造作、スタイル・全体バランスのよさなど、表面的な美のことではありません。

また、生涯の伴侶として最適な高収入のイケメン男性にのみ、美しさが発動されるという類のものでもありません。

老若男女、誰からも好感をもたれ、「この人ともっと話してみたい」「この人ともっと長い間一緒にいたい」そう思われるような魅力のこと。

そうした魅力というのは、おもに、笑顔、表情からあらわれるものですが、仕草、立ち居振る舞い、言動にも、ごく自然に滲み出ています。

なにひとつ自分を装うこともなく、「美しく優雅にあらねば!」というような張り詰めた緊張感に裏打ちされたものでもなく…。

あくまで自然体を貫きながらも、そこには品のよさ、優雅さ、生きとし生けるものに対する慈愛、寛大さ、…等々、一般的に美しいとされる人間的な様々な資質がいやみなく備わっているのです。

そして、そのような内面の充実に裏打ちされた全体の美しさ、表情のあでやかさといったものは、たとえ年を重ねてもわずかたりと揺らぐものではありません。

年老いてなお美しい。身の内に確かな自信を持ち、あなたが生きている限り発揮されつづける、長期保存可能の“美しさ”。

心を豊かに、ストレスを溜めないようにして、いつでも好奇心一杯で瞳をきらきら輝かせて…!

さあ、一緒に“真実の美しさ”を手に入れましょう!

自分に自信を持つレッスン2〜誰かのコトバにいちいち惑わされない

自分に自信のない人ほど、虚勢を張りたがるもの。そして、矛盾するようですが他人のコトバに振り回されがちです。

口先では自分が正しいと言い張り、かたくなに他者の意見を受け入れまいという姿勢を貫くけれど、実は足下はぐらついてしまっている。

まさに口先だけの反発で、最終的には自分がなにを言おうとしていたのか、分からなくなってしまう…。結果、相手の思うツボというようなことが多々あります。

自信に溢れた人だったら、こんなとき、どう対応するのでしょうか。

自信に溢れた人というのは、他者の意見にしっかり耳を傾ける心の余裕があります。

それを聞かせられたところで自分は揺らがない、という信念がありますし、相手の言い分を余さず聞くことによって突破口が生まれるかもしれない可能性も否定しないのです。

結果がどのように転んでも、それを受け入れる寛大さも持ち合わせています。

仮に自分の意志とは逆の方向に進んでしまっても、それまでの自分の努力を認めることは忘れないでしょう。その上で、自身が撮るべき最良の道を模索するでしょう。

自信のある人というのは、どのような状況に於いても揺らがないのです。

成功に対しむやみにはしゃがないし、たとえ失敗しても、自分や他人を責めることはない。虚勢を張ることもなく、あくまで自然体です。

そのような人に対し、魅力を感じる人は多いでしょう。

自信のない人というのは、すぐに虚勢を張って、そのせいで冷静な判断ができず、あとから後悔することが多いのです。

いつも自信満々で、私のコトバに対し、いつも批判しかしない年長の友人がいます。

彼女の身のうちにはびこる自己肯定感の低さ、自信のなさに気づいたのは、長いつきあいの中でごく最近のこと。

彼女はどうやら、年下の私に虚勢を張るたび、あとになってから、そのことをいたく後悔し、当面の間、私に会うのを避けているようなのでした。

そんな自家中毒みたいなことしなければいいのに…、と思います。

しかし、彼女にとって私を批判し、張り合う時間は、自分の方が立場が上なのだ、と確認でき、つかのま自己肯定することができる至福の時間だったのかもしれません。

「私は詐欺になど絶対にひっかからない!」と断言していた彼女ですが、どう考えても詐欺被害にあったとしか思えない体験談を何度か聞いたことがあります。

詐欺に遭った自覚が本当にないのか、たとえ自覚があっても自分が詐欺被害に遭ったとは認めたくない気持ちから、虚勢を張っているだけのことなのか…。

つまらない虚勢を張ることは、早いうちにやめた方がいいと思います。それは不自然な縛りだから。

縛りに囚われて、本当に大事なことを見失ってしまうかもしれません。

虚勢を張らず、自然体でいるためにはどうしたらいいか?それにはまず、他者を認めること。他者のコトバに耳を傾け、恐れのあまり批判でスルーしたりせずに、意見をしっかり受け入れることです。

相手のコトバにしっかり耳を傾けること、話している相手の表情、しぎさを読み取ること。

それをつづけることで、いつしか、他人のコトバに揺らがない核のようなものが心の内に宿るでしょう。

それこそが、あなたを真実の美へと導く、確かなる自信の芽生えなのです。

自分に自信を持つレッスン1〜自信のある人は他人を責めない!

自己肯定感の低い大人が増えているということを、以前にもお伝えしたかと思います。

自己肯定感の低い大人と言うのは、自己肯定感を持てずに育ってしまった、かつての子どもの成長した姿です。

なぜ、自己肯定感を持てぬまま、こうして大人になってしまったのか、と言えば、失敗を許さない、成功すること以外認めない、という親の厳しいしつけや態度に接してきたことに、その理由のひとつが見てとれるかもしれません。

高学歴、高収入、さらにルックスもよい。それなのに自己肯定感が低く、まったく自信がもてない、という友人がいます。

彼女と話をするたびに私が思うこと。それは他人に対しての態度がとても厳しく、だいたいにおいて批判的ということなのです

「彼女は本当に自分に自信がないの?自信過剰の間違いじゃないの?」そう考える人もいるかもしれませんね。

自己肯定感が低く、自分に自信がもてないという人が、他人に対して謙虚である、というのは単なる思い込み。

身のうちに確たるものがない、メンタルの脆弱な人ほど、自分を否定する気持ち以上に他人を否定する気持ちが強いのです。

さらに言えば、驚くほど他人に対して非寛容だったりします。

そうした、自分に自信のない人というのが、ときには人を傷つけるようなコトバを平然と口にし、別段、罪悪感も覚えない、というようなケースもけっして少なくありません。

人を傷つけて平然としているのは、みずからの優位性を誇示したいという気持ちのあらわれなのかもしれません。

コトバによって相手を軽んじているあいだは、わずかにでも自分の優位性が立証されているかのような錯覚を感じられるからです。

自信過剰でみずからを天才だと思い込んでいるような人は、「こんなこともできないの!?」などと他人を小馬鹿にするのが常である、というようなイメージをお持ちではないですか?

自信過剰でみずからを天才だと“思いたい”、その実、本当は自分にまったく自信がもてない人というのは、確かにそのように、人を小馬鹿にしたような態度をとりがちです。

これも自己肯定感の低い人のケース同様、相手を貶めることによって、その相手より自分の方が立場が上なのだ、という証明を手に入れた気になっているのかもしれません。

本当に心の奥底からの自信に溢れた人というのは、他者を傷つけることなどまず、ないと言えます。

他者を傷つける行為が、自分にとって、なんの利益も生み出さないことが分かっているからです。

自分をいうものを確立している人は、他者と自分を比較することをしません。なんの意味もないからです。

その自信のなさゆえに、他人を傷つけてしまう…。なにもいいことなしではありませんか。

私たちはもっと、自信を持たなければなりません。

自己肯定感の高い子どもを育てるために、私たち保護者は失敗に対し、もっと寛容にならなければならないのだ、と思います。

結果がどのようなものであったにせよ、それまでの努力をきちんと認めてもらうことができたのだとしたら、子どもはそれで自分は十分報われた、と満足でき、次のステップに進めるようになるのではないでしょうか。

これを自分自身に当てはめてみてください。

失敗をおそれない。結果がどうであれ、それまでの自分の努力を認める。親にはめられた枷を自分自身で壊すとき。

あなたの心の中に自信が生まれ、育ってきていると思います。

そして、自信は人を強くし、その表情を美しく輝かせるものなのです。

SNSにあげるためだけのランチや人間関係を考え直すとき

一時期よりSNSの利用が下火になっているとは言え、今も多くの人が、インターネット上でライフスタイルをアピールしています。

今日食べた料理、訪れた旅行先、偶然遭遇した有名人…。さまざまな記録と自分語りがオンライン上に積み重なり、イイネの数が増えていく…。

SNSを頻繁に利用することは、日々の暮らしが充実しているという証でもあるわけですし、改めて「充実してるなあ」と再確認するものでもある。

さらに、自分のライフスタイルが充実しているかのように見せかけ、装うことで、他人からの羨望を集めることだって可能。

SNSを楽しく利用する人が多数いる一方、SNSを巡る人間関係に疲弊、すっかり消耗してしまったという人もまた、後を絶ちません。

SNSを始めたキッカケは、友人から誘われたとか、仲間内の交友関係をより円滑にしたいという思いからだったのではないでしょうか。

親しくつきあう仲間内の数人がSNSをやっていたら、SNSをやっていない人は話題に乗り遅れ、仲間ハズレになってしまうかもしれない…!

めんどくさい、やりたくない、と参加を渋っていても、連絡がつかない、話題が共有できないなどの理由で、仲間から加入をせっつかれるというようなこともあるかもしれません。

いざ仲間入り!となったところで、そこはすでに温かな交流の場ではなかったりします。

そこで展開されているのは、ライフスタイルの優劣をつける判断であったりとか、自身のアップした記事を支持する友人・知人の数の競いあいであったりとか…。

共感を装ったディスり合戦(貶しあい)がいちばん堪える、と言っていた人もいました。

それは、たとえばこのようなことです。

「しばらく、フェースブックでみんなの動向見れてなくてごめん。実は旅行で伊豆に行ってたの!温泉まんじゅうお土産に買ってきたよ!」

「いいね、伊豆!私は沖縄に行ってきたんだ〜。沖縄の海、すっごくキレイだよ!ぜんぜん濁ってないの〜。まるでハワイの海みたい〜」

「いいなあ伊豆&沖縄!国内旅行、機会あれば是非したいと思ってるんだけど…、我が家はイギリスの湖沼地帯巡りでしっかり涼んできたよ!日本暑すぎ!」…というような。

そう考えると、友人関係とは言えど、少しも気の休まる場所ではなさそうですね…。

実生活でのつきあいだって、自慢ばかりしてくる人もいるし、他人の暮らし向きをあれこれ詮索して、比較するのが趣味というような人もいる。

しかし、SNS上のつきあいでは、ついつい、周囲の人と張り合って、自身のライフスタイルを盛ってしまいがちというところから、特有の閉塞感と面倒くささがあるかもしれません。

仲間内や知人に見せびらかすためだけの、ランチタイムや交友関係、そういったものに気詰まりを感じていたら、SNS利用にピリオドを打ってしまっていいのではないでしょうか。

純粋に、友人との交流を楽しむ。美味しいと思えるものを、美味しいと感じながら食べる…。

SNSにアップするための、かわいいわが子の姿を撮ることに夢中で、目の前のわが子の危険にまで気が回らなかった…。このような本末転倒な事例もあります。

SNSでライフスタイルを装うことに慣れてしまうと、そういう当たり前の生活がどんどん遠ざかり、SNSにあげるためだけにライフスタイルを演出しているような状況に陥ってしまうこともあるようです。

心もギスギス乾いてしまいます。そんな生活が“美しさ”のためになるとは到底思えません。

そのSNSの利用、交友関係、そろそろ断ち切る時期なのかもしれません。

キレイなママは怒らない?いえいえ、キレイな女性こそ怒ってる!

「お子さんを怒鳴ったことってありますか?」と質問されることがあります。怒っているイメージが想像しにくいのだそうです。

ライフワークとして実践している人形劇では、鬼婆や凶暴なオオカミ役を演じることもあります。それを見た方から、「こんなふうにお子さんを怒るんですね」と言われ、少々複雑な心境です。

「演技でお母さんが怒鳴ってるのを聞くと怒られている感じがする」と私の子どもたちも身を竦ませていたので、おそらくそれが真実なのでしょう。

怒らない子育てがよい、という教育論を見かけます。実践されている方も多いようです。

「子どものやることなすこと、腹が立って、すぐ怒っちゃう」「怒るとブスになるから本当は怒りたくないんだけど…」悩むお母様も大勢います。

しかし、怒らない子育てというのは子どもにとって本当によいものなのでしょうか?

私はそうは思いません。子どものためには、悪いことは悪い、とときには怒ってしっかり伝えた方がいい。

子どもが他人に迷惑をかけたり、危険な行動をしたとき、きちんと叱れる母親の表情というのは厳しく引き締まり、にも関わらず慈愛にも溢れ、私は美しいと感じます。

理不尽な仕打ちや、正直者が損してしまうような社会の仕組みに、怒りの声をあげる母親たちも美しい。怒った顔を美しいと思うのはその表情に一切ウソがないせいかもしれませんね。

叱る、と怒るは違う、という話をされる方がいます。「叱るは子どもの将来を思ってする行為。怒るは感情にまかせた自己満足」そんな説明を受けたこともあります。しかし、実際のところ、単なるコトバのレトリックなのではないでしょうか。

「アンタのためを思って叱ってやってる!」などと言い放つ親もいるようですが、実際には自分の大義名分や見栄のため、というのはよくある話。

そんな「叱られ方」は子どもにとって迷惑。とくに思春期の子どもは精神的には十分大人ですから、親の本心など見透かされています。

そのようなお母様はおそらく、幼少期にあまり怒ってこなかった、怒る必要性を感じなかったのではないでしょうか。では思春期になった今、なぜ自分本位に“叱り”始めるのか。

幼少期には自分の所有物、一心同体であるかのように思っていたわが子が、思春期になり、自我を主張しだして、自分の思い通りにならないことに腹立ちを覚えたということなのではないでしょうか。

本来なら、コトバが通じないと思った幼少期にも怒るシーンはいくらでもあったはず。しかし、自身と子どもを同一化していた母親には子どもがなにをしてもただ可愛くて怒る理由など見つからなかったのかもしれません。

他人に危害を及ぼしたから叱る。危ないからやめさせる。ただそれだけのこと。そんなときに、「わが子のためを思って…」などという大義名分が必要でしょうか。

幼いときほど、怒ってください。幼い子は恐い顔をして厳しいコトバで伝えないと「してはいけない」ことが理解できません。

「あらあら○○ちゃん、ダメよ〜」と優しい顔で窘めるだけでは、それがいいことなのか、悪いことなのか、幼い子には判断できないのです。

成長の過程で、子どもが物事をよく理解できるようになったら怒るのではなく、「諭す」「話し合う」という方向に徐々にシフトしていけばよいと私は考えます。

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