Categoryarchive

老人ホームの恋愛事情で分かった!“美しさ”が世界を平和にする件

かつて人気アイドルだった女性歌手が、人気アイドル男性との交際の破局会見をしたとき、「生まれ変わったら一緒になろうね、って」という名言を放ったことがありました。

私も若き日に、とても好きだったのに、残念ながら恋人関係になれなかった男性から、「将来、老人ホームに入ったら、つきあおうね」という名言を放たれ、あっさり振られたことがありました…(苦笑)

当時、「ありえね〜!」と言って仲間うちでの笑い話だったのですが、その与太話がにわかに現実味を帯びてきましたよ!

いえいえ!私がそろそろ老人ホームに入るという話ではなく、その男性から最近アプローチがあったというわけではもちろんなく(!)

最近の老人ホームの恋愛事情がものすごいことになっている、ということなのです。

近隣には超気滞在型のオシャレな有料介護施設(ケアホーム)がいくつもあります。

定年退職を迎えたばかりで、まだ足腰も丈夫、頭の方もすっきり明晰。介護が必要な状態ではまったくないのにも関わらず、将来のことを考えて、ご夫婦でケアホームに移られたという方もいます。

長年、ご夫婦で趣味のギター演奏を楽しまれていた方でもあるので、居住者でありながら、ボランティアでギター演奏の慰問活動をされているのだとか。

そんな若々しく元気な方々が大勢入居されているとなれば…。

男と女があるところに、恋の花が咲かぬわけがない。

そのケアホームの恋愛事情までは把握していないのですが、昨今の老人ホームというのは比較的元気なご高齢者が多く入居されており、そこでは恋愛模様がさかんに繰り広げられているそうなのです!

少し前までは入居者のうちの女性比率はきわめて高いものでした。女性は男性に比べて寿命が長い傾向にあるからです。

女性の比率が高ければ、数を頼って女性の力も当然強いもの。男性陣は比較的おとなしく、若かった当時とは立場が逆転しているかもしれませんね。

最近は、男性の寿命も長くなり、男性入居者も少しずつ増え始めました。

もしも、新入居者が、イケメンのおじいちゃんだった場合。

おばあちゃんたちは、オシャレしたり、濃いめのお化粧をしたり、…イケメンおじいちゃんの気を引こうと俄然張り切るそうなのです。

若い頃のように、イケメンおじいちゃんをひとり独占しようとして、女同士足の引っ張り合いをするなど、見苦しい真似はしません。

アイドルのコンサートにやってくるファンよろしく、行儀正しく、おばあちゃん同士で和気藹々。イケメンおじいちゃんの“美”によっておばあちゃんワールドに潤いと平和がもたらされるという次第です。

一転、男性入居者が複数いるケアホームに美しいおばあちゃんが入居することになったら…。

今度は反対に、その美女を奪い合う、おじいちゃん同士の熾烈な戦いが繰り広げられるのだとか…。

おじいちゃん、おばあちゃん、どちらもお元気ですねえ。

年をとっても、心を動かされる“美しさ”というものが存在するということ。

そして、年を重ねて培った“審美眼”、“美意識”は、かつての基準とはまったく違ったものになっているかもしれません。

若い頃、あんなにモテた人が、今や全然イケてないとか。若いときはイマイチだった人が、年を重ねたことで魅力を増してくるとか…。

「非モテ」「彼女いない歴が年の数」なんて淋しい発言を繰り返す若き男性たちにも、ケアハウスで「人生最大のモテ期」を体験できるかもしれないですよ。どうぞ老齢期をお楽しみに!

愛の形はひとつじゃない!心と体の性の一致しない人の“美”について

LGBTというコトバを最近よく耳にします。これは性的少数者を示す頭文字を取った造語です。

Lはレズビアン、女性を愛する女性のこと。Gはゲイ、男性を愛する男性。この2つは性的指向が同性へと向けられています。

Bはバイセクシャル、男性、女性、どちらも愛せる人。最後のTはトランスジェンダー。心とカラダの性の一致しない人を指します。

このトランスジェンダーに対する支援が近年、高まりを見せていますが、そのことに、わずかなひっかかりを感じてしまうのです。

心と肉体の性別の違和感を解消するため、適合手術を受ける。あるいはホルモン剤を投与する。

理解ある医師の元で安全な治療を受け、「やっと本来の性に戻れた!」マスコミの取材を受け、喜びの声を伝える、元トランスジェンダー。

その人の性的指向が男性から女性、女性から男性に向けられるものなら、同性愛を「正しい夫婦の形ではない!」として認めない一部保守系の人々も受け容れ、支援に異を唱えることはありません。

しかし、心と肉体の乖離を解消した上で、同性への愛を選んだとしたら、保守派は支援に難色を示すことになるでしょう。

同性愛指向を持つ男子が、LGBTについてあまり知識を持たない大人たちから、「男が好きならば、女性になればいい」というような間違った認識を植え付けられることはないでしょうか。

男子はよく分からないまま、実際には必要のなかった適合手術を受けさせられる羽目に陥らないか。そんなふうに考えてしまうのです。

世間的にトランスジェンダーに関しての認識は深まりつつある気がします。

「自分(男)が男しか愛せないのは、実は心が女だからだ」

そう考えるのは、一般常識に凝り固まった人にもわかりやすい事例だからです。

しかし、男性が好きな男性が、必ずしも女になる必要はないし、女っぽく振る舞う決まりもないのです。

逆も同様。女性が好きな女性が、男性っぽく振る舞う必要はないし、少女歌劇団のように「男役・女役」を振り分ける理由もありません。

もし、同性愛に対し差別がない世の中なら、トランスジェンダーという存在はここまで明らかにされなかった、と思います。

もし、同性愛に対する差別のない世界だったら。

もしかしたら、今現在トランスジェンダーと診断された人のうち何パーセントかは、適合手術もホルモン投与も必要なく、生まれついた性を素直に受け容れられるのではないか、と思うのです。

好きになった人がたまたま異性だった、同性だった。ただそれだけ。
性的少数者LGBT、などと括る必要も、区別する必要もないのです。

男として女の恋人と暮らし、生活費を稼ぐために女として男を騙し、金を奪っていたという、トランスジェンダーの窃盗犯が話題になったことがありました。

もしかして彼女(彼)は、女の恋人のためにわざわざ男を装っていたのでは?と私は思ったのです。

男である自分が本来の自分で、犯行がバレないよう、女装していた、というのがことの真相かもしれないのですが…。

お伝えしたかったのは、愛のカタチは「異性から異性に向けた」ものだけではないということ。

私のトランスジェンダーに対する理解は間違っているかもしれない。しかし、たまたま愛した人のためだけに、“美”の基準を変えて欲しくはない。

できることなら、愛する人には、ありのままの性の自分を受け入れてくれる人を見つけて欲しい、と強く思うのです。

古今東西傾国の美女たちから学ぶ!殿方を惹きつけるトーク術

若い頃、関西出身の友だちから、こんなことを言われたことがあります。「東京では可愛い女の子やカッコイイ男の子がモテるみたいだけど、関西ではトークが面白いコじゃないとモテないのよ」

アンタは話が面白くないからモテない、ということだったのか、可愛くないけど、話さえ面白ければ(関西なら)チャンスはあるよ!ガンバレ!という意味だったのか…。

関東・関西の違いに限らず、ホステスさんやキャバクラ嬢はキレイなだけ、可愛いだけではダメ。店のナンバーワンと言われる女性は話し上手、聞き上手でないと勤まらないと言います。

地位と権力を持ち、さらに教養の高い男性なら、当然、相手をする女性にもそれなりの頭の良さを求めてくるでしょう。国の統治者、国王や、国家を預かる元首などであればなおのこと。

高い権力を持ち、意のままにできる財力のある男性はたいてい、「色を好む」。つまり美女が大好き。大奥の文化など、まさにそれを具現化したものと言えましょう。

そういった場所に見目麗しい美女たちが集められたことは容易に想像がつきますが、長きに渡って寵愛を勝ち取るのは「頭のよい女」。

「絶世の美女」の代表格とも言える、クレオパトラは、戦術に長け、戦乱の世でオトコ顔負けの活躍をしました。なにより声がきれいで、話術が巧み。

クレオパトラと話をした男性たちは、いつまでもこの女性と話しつづけていたいと願ったそうですから、現世ではおそらく指名を取りつづけるナンバーワンホステスとなったことでしょう。

クレオパトラに関しては当時流通していたコインに横顔が刻まれているだけで、肖像画も残っていません。妹が美しかったことは分かっており、姉もおそらく美しかっただろうと言われています。

しかし、時の大物男性ふたりを陥落させたのは、美貌というより、むしろ人を魅了して止まない、そのトーク術にあったと考えられています。

日本の美人の代表は、小野小町。その生涯は謎に包まれていますが、当時、身分の高い人たちに必須だった和歌を数多く残し、教養の高さはお墨付き。

深草少将とのラブロマンスは悲恋ですが、Sッ気のつよい、頭の回転の速そうな言動は、女王様気質の大好きな男性には堪らない魅力だったに違いありません。

フランス国王15世の愛人のひとりであるポンパドゥール夫人もまた、頭のよさを認められた存在。当時の政治は彼女がベッドで操っていた、と言われるくらい、頭脳明晰、話術が巧みだったとか。

教養が高い男性を惹きつけるトークとはいったいどんなものなのでしょうか?

おそらく共通するのは“聞き上手”だったことだと思われます。相手のホンネを上手に引き出して、相手が言って欲しいコトバを巧みに探り当てる。

ここぞというポイントを逃さず上機嫌にさせた上で、自分の要求をうまいこと、相手に呑ませていたのではないでしょうか。

今は戦乱の世ではなく、平和な時代で、一般人である私たちは戦術や外交などに直接口を挟む立場にはありません。

しかし、相手からホンネを聞き出すこと、相手が言って欲しいと思っているコトバをここぞというポイントで言うことができれば、相手から、「ずっと側にいて欲しい」と思われること間違いなし!

地位と教養のある男性をゲットしたいと思ったら、まずは聞き上手に徹する。相手に純粋な関心を抱き、変な先入観を持たず、まっさらな心で相手に対峙することです。

それが傾国の美女たちに見習うトーク術の一歩!

忙しいときほど輝いてみえる!美人が実践するささやかな日常習慣

「忙しい忙しい、と言ってる人ほどよっぽど暇そうに見える。大体忙しい忙しい、って二度もいう暇があるじゃない!」以前、笑いながらそんなことを言う友人がいました。

ここだけの話、本当に忙しい人は、「忙しい」なんて口が裂けても言わないものなんです。

まして「忙しい忙しい」なんて二度も口に出す人の忙しさなんて…。「たかが知れているわね」前述の彼女なら皮肉な笑みを口元に浮かべながら言い放つことでしょう。

端から見ていても本当に多忙な人がいます。親しい人たちは彼女の状況をよく知っています。

「仕事が忙しい」という場合、それは会社的な繁忙期であるとか、悪く言えば、処理能力が低く、頭の回転の速い人ならすぐに片付けてしまえる仕事をいつまでもモタモタやっているとか…。

あるいは、頼まれたら「イヤ」とは言えない性分で、他人の分まで面倒を見てしまうため、いくつも仕事を抱えこんだ結果、忙しさに自分を追い込んでしまう…。

彼女のケースはこれに近いかもしれません。しかし、異なるのは「仕事ではない」ということ。

彼女が抱えている多くのことは報酬には繋がらないのです。誰かから評価されるものでもない。多少感謝はされるかもしれないけれど、…それは稀なケースです。

誰かがしなくてはならないことを、誰も引き受け手がいないから、彼女が一手に引き受けているという状況です。

まったくお金にならないボランティアとして実にまめまめしく立ち働く彼女について、「あの人は暇人だから」などと陰口をきく人も中にはいます。

しかし、実は彼女、ボランティアの隙間時間を活用して、フルタイムで働く人には及ばないながらも、それなりの収入を得ているというから驚きです!

さらに多趣味で、ジャンルの違ういくつかの習い事を掛け持ちしています。それぞれの習い事でそれなりの成果を上げており、代表や調整役を務めたりもしているようです。

そんな彼女ですから、当然交友関係も幅広く、映画や観劇、ランチや飲み会など、いつも予定がぎっしり。

いうまでもなく、彼女はいつも表情がいきいきと輝いている美人で、同性からも異性からも、とても慕われています。

当然ですが、彼女の口から、「忙しい」というコトバを聞いたことがありません。

「いつ寝てるんだろう?ちゃんと食べているのかな?」そんなふうに周囲に気を遣わせることもなく、いつも元気で弾けるような笑顔を見せ、彼女の処理能力の高さには舌を巻く限りです。

こんなにも多忙の中でも、美しさを失わず、むしろ輝いていられる秘訣はどんなことなのでしょう?

それは、「来た誘いをむげに断らない」ことなのだそうです。「忙しいときほど、楽しいことを大事にしたい!」それが彼女の信条。

苦手な人、一緒にいて気詰まりな人の誘いも断らないのでしょうか?「そういう人は、向こうから声をかけてこないんです」

彼女曰く、無為な時間を過ごしていると、そういう、自分と合わない人からの誘いがくることも多い。

しかし、わずかな時間も無駄にせず、大切に過ごしていると、その手の、苦手な人からの誘いはまず、来なくなるのだとか。

「スケジュールが合わなかったら、次の機会に!と言うことを忘れません。その機会はなるべく早めに、私の方からセッティングするようにします」

なるほど、そうした人と人との関わりをけっしておざなりにしない、真摯な姿勢が“美”を作るのですね!納得しました。

心の問題が一掃されれば“ブス要素”は解消し、たちまち表情美人!

あなたは自分の美しさに自信が持てますか?

どんなに造作が美しく、グッドプロポーションの美人でも、自分に自信が持てないという人は、この世の中に数多く存在します。

反対に、目鼻立ちはそれほど際立った方ではない。スタイルだってけっしていい方ではない。

にも関わらず、いつも笑みを絶やさず、大勢の人に慕われ、この人はめいっぱい人生を楽しんでいるな、と羨ましく思える人がいる。

おそらく周囲の人に聞いたら、前者のような人でなく、後者の人の方を“美人”というのではないでしょうか。

世間的には、前者のような人に対して「顔立ちは整っていてスタイルもいいけれど、あまり魅力的でない」という評価を下されるような気がします。

両者の違いはいったいどこから生まれてくるのでしょう?

私はそれを「心の問題」だと思っています。

「心の問題」というのは、気がかり。ひっかかり。はたからすれば、ささいで、どうでもいいことに過ぎないのに、本人は気になって仕方がないこと。

自分の中にある「心の問題」に気づき、前向きに対処している人は少なく、たいていはどうしてよいか分からず、それを持てあましているもの。

気づかないようにフタをしてしまっている人もいるし、はなから気づいていないというケースもある。

しかし、自分に自信を持てない人のほとんどは、こうした「心の問題」を抱えていることが多いのです。

そして、この心の問題さえ解決できれば、たいていの人は、“美人”になれるものなのです。

友人に、「学生時代、メガネからコンタクトに変えたら、モテモテになった」という女性がいます。

少女マンガや、お笑いなどでもよく見かけるネタですが、実際にもそんなことってあるんですねえ!

視力が極めて低く、いわゆるビン底メガネをかけていたという彼女。

チャームポイントの黒目がちの瞳は分厚いレンズの中でいつもぼやけていました。コンタクトをすることで、ガラスレンズに覆われていたつぶらな瞳が、初めて衆目に晒されることとなったのです。

「このコ、実はこんなに可愛かったんだ!」と、たちまちのうち、人気ものになっていったという彼女。

しかし、私はこれを、メガネを外したから、という理由でなく、彼女の心の問題が解決されたからだ、というふうに捉えています。

「メガネを外した私はきっと可愛いはず」という彼女のつよい思いが、コンタクトをした瞬間、確かな自信となって表情に表れたに違いないと考えられるのです。

「一重まぶたでいつも眠たい顔をしていたさえない子が、二重まぶたに美容整形したら途端に可愛くなって、モテモテになった!」

このような話も、実際には二重になって造作が美しくなったから、というより、二重にすることで自分に自信が持てるようになり、それゆえにモテ始めた、と考えるのが順当の気がします。

美容整形を何度も繰り返す、「整形マニア」の人がいます。これは“飽くなき美への追究”というより、不安からくる妄執といった方がピッタリくるかもしれません。

彼女は、どんなに腕のよい外科医が彼女の注文通りに顔やカラダを改造しても、満足することがない。自分に自信を持つことができないのです。

これは「心の問題」に起因する、一種の病気であると思われます。もし、彼女の心の問題を一掃、解決することができたら…。

彼女はこのような美容整形による危険極まりない人体改造をスッパリやめ、本当のシアワセを享受できるはず、と私は考えているのですが…。

それは彼女にとっては、大きなお世話なのかもしれません。

あなたの心を軽くし、コミュニケーション美人にする挨拶の法則

「自分からすすんで挨拶をしましょう」というメッセージ、標語をあちこちで見かけます。

では、「自分からすすんで挨拶をしている人」、あなたの身の周りにどれくらい、いますか?ほとんどいないのが実情ではないでしょうか。

私はボランティアとして、地域の公民館や学校などに出かける機会が多いのですが、公民館スタッフが、向こうから私に気づいて挨拶をしてくれる、ということは滅多にありません。

もっと残念なことには、学校の先生方の中には、こちらから挨拶をしても挨拶が返ってこないような方が少なくないということです。

「学校現場は疲弊している」なんて話を耳にしますが、教師みずからボランティアに挨拶することはおろか、挨拶を返すことすらできないとは…。よっぽど疲弊しているに違いありません。

教育現場や、公共機関の提唱する「みずから進んで挨拶」というのは、コトバだけがひとり歩きする、空虚なものであることが伺えます。

「最近の子は、ちっとも挨拶をしないのですよ〜」と嘆く大人は多いのです。ではその方自身はどうなのか?…見事に挨拶しないのです!そんな大人に子どもの方がすすんで挨拶するなんて、あり得ませんよね。

挨拶がこんなにも推奨されているにも関わらず、大人も子どもも挨拶をしない、できないケースが多い理由とはいったいなんなのでしょうか。

そのひとつに、「挨拶をしてもスルー(無視)される」という理由が挙げられそうです。

私自身、ボランティアとして、それなりに尽力していると自負する学校で、気づいてもらえない、挨拶を返してもらえないことに対し、激しいショックを覚えます。

「挨拶もしてこない!」と腹を立てる前にまず、気づいてもらえなかった、無視されてしまったことで、自分の存在を全否定されたように感じ、落胆してしまうのです。

怒りというのは、転じてパワーになりやすいのですが、ショック、落胆というのは、パワーにはなり得ません。力が抜けてしまうだけです。

すすんで挨拶できないことには、こうした落胆を何度か体験してしまったことが要因としてあるのではないでしょうか。

頭では、「挨拶することはいいことだ」とか、「挨拶は自分からすすんでするのが望ましい」と理解しており、子どもたちに「すすんで挨拶しなさい」なんてもっともらしいお説教だってできてしまう。

しかし、いざその状況になると、以前だれかから挨拶をスルーされた経験から、咄嗟のコトバが出て来なくなってしまうのではないでしょうか。

かつてのトラウマから、咄嗟の挨拶のコトバが出て来ない…。そんな人のために、私が常々実感し、実践してもいる、“挨拶の法則”をお教えしましょう。

「10人のうち、3人から挨拶が返ってこないより、100人に挨拶して50人から無視されることの方が辛くない」

打率としては後者の方が悪いじゃないか。そんなふうに思われるかもしれませんね。しかし、心の痛みというのは割合などではケアできません。重要なのは、数です。

想像してみてください。挨拶を返してくれたのが7人であることと、50人であること。その中にいくつ魅力的な笑顔があったか。

笑顔には、エネルギーを与える力が宿ります。50人の挨拶の中に笑顔が含まれる可能性は7人のそれよりはるかに多いに違いありません。

さあ、あなたも無視を恐れず、自分からどんどん挨拶して、コミュニケーション美人になりましょう。

あなたがみずから挨拶をしてくれる人だと分かれば、あなたと関わる多くの人がみずからすすんで挨拶してくれるはずです!

他者への無関心、好奇心…、どちらも行き過ぎればブスへの超特急

いくつになっても子どものように好奇心を失わず、あたらしいことにチャレンジする人は、実に若々しく魅力的です。

つい最近も90歳に近いご高齢ながら、目の見えない方のための朗読のボランティアをつづけるため、ボイストレーニングの講習を受けているという方に出会いました。

見事なシルバーヘアで、腰も少し曲がっておられるのだけれど、たいへんお元気で少女のようなキラキラした瞳が実に印象的。素敵なご婦人でした。

いくつになっても好奇心を失わないことはとても大切です。しかし、好奇心が強すぎる、というのは少し考えもの。

好奇心の行き過ぎを戒める、とてもよい題材があります。「青ヒゲ公」の物語です。

オペラや映画の題材にもなった有名な話ですが、元々は子ども向けの童話。

と言っても、実は歴史上の人物をモデルにした血なまぐさい話。
「好奇心を持ちすぎると酷い目に遭う」という教訓がまぶされたホラーストーリーです。

日本の昔話にもよく出てくる、「これこれをしたらいけないよ」と禁じられている場所にわざわざ立ち入る、というもの。

人間というものは、禁じられたことに限って興味を抱き、危険を感じつつも、自分の方からのこのこ出かけて行き、結果、生命を脅かされる境遇に陥ってしまったりする。

また、“獲物がかかるのを舌なめずりしながら待つ”側も、そうした人間心理をよく分かっていて、「けっして来てはいけないよ」などと、反語的なトラップをわざわざ仕掛けておく。

その手の危険な好奇心というものは、確かに持たぬ方が身のため。恐怖におののく形相では、どんな美人も台無し。まさにブスへの超特急!

ときには、見て見ぬふり、無関心で押し通すことも、大人社会では必要な場合があります。

あきらかに相手にとって状況が不利となる過失や失敗。バッチリ見てしまったけれど、「見ーちゃった、見ーちゃった!」とばかり、好奇心丸出しで、世間に広く知らしめようとする態度は感心できません。

それが正義感ゆえの言動であるにせよ、相手にとって迷惑千万な行為である以上に、あなたという人間の品格を下げてしまいます。そうしたときは無関心を装うのが大人のマナーです。

また、よく知りもしない相手の状況をあれこれと詮索し、差し出がましい口を挟む、というのも感心しません。発言者の言葉尻だけを捉えて攻撃したり、誰かの意見を真に受けて尻馬に乗ってみたり。

インターネットの世界では、よく見受けられますね。

何事にもクールで無関心なのがいいか、と言うと、やはりそうではありません。

もし、困っている人がいたら、その人が声に出さずとも状況を察知して手を差し伸べる。そんなときは無関心を装わず、気づいて即行動できる人であって欲しい。

困っている人を見て、私には関係ないわ、面倒ごとに巻き込まれるのはまっぴらごめん、とばかりにしらんぷりを決め込む人間の表情というのは、とても醜いものです。

誰からも認められなくても、褒められなくても、たとえ気むずかしい当事者に煙たい目で見られたとしても…。誰かが困っている状況に気づき、行動すること。

それは、あなたの心の糧となり、あなたの表情を美しく輝かせてくれることでしょう。

興味本位に陥らないほどに、周囲に感心を持つこと、また、あるときは大人の余裕で無関心を装い、こっそり見過ごす心の余裕を持つこと。

そのどちらも身につけることが、心磨きにとってたいへん重要なのです。

周囲から“イタイ”と思われないための必死の努力はするだけ無駄!

かつて、30代女性向けトレンドファッション誌が創刊された当時、たいへん画期的だと言われていましたが、時を経た今、40代向け、50代向けのファッション誌も珍しくありません。

年代に合った装い方を海外事情にも精通したスタイリストや編集者など、プロの面々が懇切丁寧に教えてくれるトレンドファッション誌。

表紙には、「ファッションに悩める私たちの救世主!」というようなキャッチコピーが並んでいるのですが、実際に救世主たり得るのでしょうか?

若い女性のようにトレンドファッションに関心がないとされていた、40代、50代には、その世代をターゲットとしたファッション誌などありませんでした。

それゆえ、ファッションに関心の高い人たちは「自己流オシャレ」を自由に楽しんでいました。

ファッションにそれほどこだわりのない人は、若い頃の服を今も大事にしていたり、流行に左右されないベーシックな服を着たりしていたわけです。

しかし、世代向けのファッション誌ができたことにより、雑誌情報によって「つくられたトレンド」を真に受けてしまう層というのが若い世代同様に出現してきます。

こういった人たちは、自己流ファッションを楽しむ人や、トレンドに興味のない人たちに対し、「イケてない」「貧乏クサイ」というような侮蔑の視線を投げかけることに暗い悦びを見出す傾向があるようです。

ファッションは本来自己表現なのですから、TPOに配慮し、相手を不快にさせない範囲なら、いくらでも自由に装ってよいはず。

それがひとたび、トレンドファッション誌の手にかかれば、NG、禁止、御法度のオンパレード。

自身のワードローブにあるアイテムを、雑誌に登場する “オシャレ番長然”として自身満々なプロたちに「ダサイ!」などとこきおろされれば、面白くないに違いありません。

そんな恨みもあってか、雑誌がNGとするような着こなしを街中で見かけようものなら、同じ雑誌を愛読する仲間と、「見てあれ!」「超ダサイ!」などと盛り上がること必至。

10代、20代ならまだしも、誰かの決めつけた「イタイ」を真に受け、身内と黒い笑いで盛り上がる40代の方がよっぽどイタイように思えるのですが…。

「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」

元米大統領リンカーンのこのコトバは、男性に向けて発されたものだそうですが、男女問わずに共通することだと思います。

40にならなくても、自分がしたいと思うファッションにもっと自信を持っていいと思うのです。

ファッション雑誌に登場する“オシャレ番長たち”はなるほど、トレンド界の重鎮かもしれません。しかし、そのトレンドというのは、「購買を煽る」ためのものにしか過ぎません。

私たちが“購買の奴隷”である必要はまったくないのです。巷に溢れる「イタイファッション」認定に怯える必要などまったくナシ。そんな努力するだけ無駄というものです。

大抵の人の「イタイ」という感覚にはたいした根拠もないもの。
雑誌に書いてあったから、オシャレ番長がそう言ってたから…。その程度の認識に過ぎません。

自分がゴキゲンになれる好きな服を着て出かけるのが、表情美人の秘訣。

それがたまたま、オシャレ番長が提唱するオシャレな着こなしだったら、…それはそれでいいではありませんか。

ただ、個性的着こなしのファッショニスタへの敬意はくれぐれもお忘れなく!

心に余裕がないと簡単に人間関係はヒビ割れ、あなたをブスにする

ボランティア活動を主とする市民団体や、PTA役員をされている方々にお話を聞く機会があります。

そこで感じるのは“人手不足”、あるいは“高齢化”の問題。

若い世代、働き盛りにボランティアやPTAのなり手が少ない。サークルの立ち上げ時はみな若々しく元気だったが10年、20年経って、メンバーが年を取った。介護で抜けてしまった。若いメンバーが増えない、等々の悩みはどこの団体にも共通しています。

慢性的人材不足に悩むサークルやPTAは、社会を担う若い世代のワーキングマザー&ファザーにも、活動に加わって欲しいと考えています。

「できる範囲の参加で構わない」「会議は仕事帰りでも間に合う夜に行う」「土日中心の活動」などと従来のやり方を改善し、あの手この手で勧誘しますが、結果は芳しくありません。

仕事帰りで疲弊した上、会議にまで参加するなど土台無理。平日は働きづめで土日くらいゆっくりしたい。溜まった家事を片付けたい、家族サービスもしたい…。

ボランティアやPTA活動に費やす時間など捻出できない、という断りの理由は至極真っ当です。

働かざる者食うべからず。仕事に従事し、その対価としての賃金を得なければ、人は暮らしていけないからです。

口に糊する程度の働きではダメ。将来有利に生きていくために子どもに高水準の教育は不可欠、ワーキングマザーとして恥ずかしくない服やメイク、つきあいをこなすためにそれなりの軍資金も必要…。

どんなに働きづめで働いても「生活が満ち足りる」ことはなさそうです。

あれもして、これもして、周囲の生活水準についていくためには、もっとバリバリ働いてお金を得なければならない。

お金の余裕をつくるために働くことで、心の余裕をなくしてしまう若い世代が多い気がします。

それが本当に自分や家族の欲しているものかどうか分からないまま、ただ周囲に負けないようにと肩肘張って必死で日々を過ごしてれば、心に余裕がなくなるのも当然です。

そのような余裕のない心に、「自分や家族以外の人のために尽くす」などという発想など生まれっこありません。

しかし、私たち人間は所詮ひとりでは生きていけない。家族の中だけで生活は立ちゆかない。成り立たないのです。

心に余裕がない人は、あらゆることを疎かにしがちです。子どもがトラブルに巻き込まれる可能性も高く、それを冷静に対処する余裕がないために、修復不可能なほど人間関係を壊してしまうようなケースも多数見ています。

心に余裕のないワーキングマザーは表情もこわばり、子どもやご主人の心もどんどん離れていきます。ブス道、まっしぐらなのです。

そうなってしまう前に、自分や家族以外の周囲、地域に目を向けてみませんか。

あなたのできることは実は無限にあります。あなたの助けを必要とする人も大勢います。家族を大切にしたいなら、家族ぐるみで参加できる市民活動、ボランティアもたくさんあるんですよ。

そこで生まれる交流は、余裕のないあなたの心に変化をもたらしてくれるかもしれません。

たとえば、「お金が足りないから必死で働く」という考えを、「工夫してお金を使う」考えに改める。それだけで心にほんの少し余裕が生まれそうですよね。

仕事関係だけでなく、年齢や職業も多種多様な人々と交流することで、そんな賢いヒントを得ることもあるかもしれません!

心に余裕のないときにこそ、ボランティア。実はオススメなんです。

他人を不幸へと導く忌まわしき存在、自己充足できない“エセ美人”

「美人は得か損か?」

私は子どもの頃から常々、「美人は損だろう」と思っていました。「同性には妬まれるし、異性からモテすぎてストーカーにつけ狙われる可能性も高そうだ」

事実、子どもの頃は、美人な妹が、美人とほど遠い姉や、友人から妬まれ、虐められるという少女マンガをよく読みました。

読んだあとには、「こんな目に遭うくらいなら、私、美人じゃなくて全然いいや」と安堵のため息を漏らしたものです。

実際のところ、美人は得なのか、損なのか。それを実に真面目に、経済学の権威が20年に渡る研究成果をまとめあげた、という本が話題になりました。タイトルには「美貌格差」なる身も蓋もないコトバが…。

その本によれば、美人というのは、美人でない人より、生涯賃金が2,700万円も高いという結果が出たのだとか。

「美人は絶対に損であって欲しい…」はそうでない女性からの切なる願い。実際には美人であるということは、かなりのお得。

しかし、今現在、「キレイに、可愛く」魅せることはメイクやファッションである程度可能ですし、高い代価を払えば、顔の造作、ボディラインにしても自分の理想形にいくらでも近づけることは可能です。

「美人になって得をしたい!」人にとって、お金さえあれば、いくらでも美人はつくれてしまう時代なのです。

そうやって、外見を理想型に近づけて“美人”を手に入れたところで、それを上手に活かすことのできない“エセ美人”がこの世にはたくさんいるようです。

他から秀でたかわいらしさ、美しさというものは、人の評価を“甘く”しがちです。

「このコ、かわいいから奢っちゃおう。おまけしてあげよう」という心理が自然と異性に働くものなのです。

そうした人からの好意を感謝して素直に受け取れるのが“美人”だと私は思います。

“エセ美人”は、そこで疑念を抱してしまうのです。「ライバルの○○ちゃんはもしかしたら私よりよっぽど高いもの奢ってもらってるんじゃないかしら?」「この人、私のことを軽く見ているかもしれない」などと…。

“エセ美人”は自分の美しさにはそこそこ自信があります。自分より美しくない人を見下したりすることで得た、実にうすっぺらい自信です。

周囲の人には、「私ってこんなにスゴイのよ、モテるのよ」ということをあからさまにアピールしたりします。そうやって四六時中自慢していないとうすっぺらい自信が保てないからです。

そういう“エセ美人”の自己アピールに騙されて、「なんてイイ女だ」などと鼻を伸ばすような、おめでたい単純な男性も少なくはないですが、聡明な人ならば、そうした“エセ美人”をすぐに見抜きます。

適当にあしらわれてしまうのがオチでしょう。そこで自分の“エセ美人”ぶりに気づけばよいのですが、そうはならないのが哀しいところ。

自分よりちやほやされているように見える“美人”を妬み、あることないこと周囲に吹聴してみたり、意地悪したりしてしまう…。

“エセ美人”って他人を不幸に導く、つくづくハタ迷惑な存在なのです。さらに言えば、自分もちっともシアワセではないのです。

“エセ”が本当の“シアワセ美人”になるのは簡単。きちんと自己充足ができるようになればいいのです。

好意を素直に受ける、他人といちいち比べない、今、自分の置かれた状況に感謝する…。

それだけで、あなたの心持ちは変わってきます。その心の有り様は、心の鏡となる表情に如実に表れてくることでしょう。

あなたの言動、行動は美しく磨かれていき、必ずや多くの人を惹きつけることになります。

copyright © heartshine-lessons.com