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老若男女を惹きつける美しさとはココロからにじみでる自信のこと!

~魔法の心磨きレッスン~内面から美しく綺麗に!をここまで読んでいただき、ありがとうございました。

真の美しさとは何かということが、ご理解いただけたでしょうか。

レッスンの初めは笑顔のつくり方についてを学びました。次は、睡眠不足をもたらすストレス解消法について、つづいてダイエット不要論を、表面的な魅力でなく人間的な魅力を持ちたいということ…。

多少の腹黒さ、毒も、ときには有用であるということ。もっとトークが弾む方法について、ストレスを解消し美肌に繋がる涙活のこと…。

どんなに拭いさっても、いつのまにか身の内に沸き上がってコールタールのように張りついてしまうドス黒い感情の飼い慣らし方も学びましたね。

人を惹きつける豊かな喜怒哀楽の表現方法、ありのままの自分を否定しない方法、心地よい交友関係だけでなく、自分を否定するような人の意見にも耳を傾けることは実はたいへん有意義であること…。

許容範囲が広いことは大事であるということ、食事や睡眠同様、欲望が大事であること…。

それらすべてが、身の内に確かな自信を宿すということに繋がっていました。

真の美しさとは、顔の造作、スタイル・全体バランスのよさなど、表面的な美のことではありません。

また、生涯の伴侶として最適な高収入のイケメン男性にのみ、美しさが発動されるという類のものでもありません。

老若男女、誰からも好感をもたれ、「この人ともっと話してみたい」「この人ともっと長い間一緒にいたい」そう思われるような魅力のこと。

そうした魅力というのは、おもに、笑顔、表情からあらわれるものですが、仕草、立ち居振る舞い、言動にも、ごく自然に滲み出ています。

なにひとつ自分を装うこともなく、「美しく優雅にあらねば!」というような張り詰めた緊張感に裏打ちされたものでもなく…。

あくまで自然体を貫きながらも、そこには品のよさ、優雅さ、生きとし生けるものに対する慈愛、寛大さ、…等々、一般的に美しいとされる人間的な様々な資質がいやみなく備わっているのです。

そして、そのような内面の充実に裏打ちされた全体の美しさ、表情のあでやかさといったものは、たとえ年を重ねてもわずかたりと揺らぐものではありません。

年老いてなお美しい。身の内に確かな自信を持ち、あなたが生きている限り発揮されつづける、長期保存可能の“美しさ”。

心を豊かに、ストレスを溜めないようにして、いつでも好奇心一杯で瞳をきらきら輝かせて…!

さあ、一緒に“真実の美しさ”を手に入れましょう!

自分に自信を持つレッスン2〜誰かのコトバにいちいち惑わされない

自分に自信のない人ほど、虚勢を張りたがるもの。そして、矛盾するようですが他人のコトバに振り回されがちです。

口先では自分が正しいと言い張り、かたくなに他者の意見を受け入れまいという姿勢を貫くけれど、実は足下はぐらついてしまっている。

まさに口先だけの反発で、最終的には自分がなにを言おうとしていたのか、分からなくなってしまう…。結果、相手の思うツボというようなことが多々あります。

自信に溢れた人だったら、こんなとき、どう対応するのでしょうか。

自信に溢れた人というのは、他者の意見にしっかり耳を傾ける心の余裕があります。

それを聞かせられたところで自分は揺らがない、という信念がありますし、相手の言い分を余さず聞くことによって突破口が生まれるかもしれない可能性も否定しないのです。

結果がどのように転んでも、それを受け入れる寛大さも持ち合わせています。

仮に自分の意志とは逆の方向に進んでしまっても、それまでの自分の努力を認めることは忘れないでしょう。その上で、自身が撮るべき最良の道を模索するでしょう。

自信のある人というのは、どのような状況に於いても揺らがないのです。

成功に対しむやみにはしゃがないし、たとえ失敗しても、自分や他人を責めることはない。虚勢を張ることもなく、あくまで自然体です。

そのような人に対し、魅力を感じる人は多いでしょう。

自信のない人というのは、すぐに虚勢を張って、そのせいで冷静な判断ができず、あとから後悔することが多いのです。

いつも自信満々で、私のコトバに対し、いつも批判しかしない年長の友人がいます。

彼女の身のうちにはびこる自己肯定感の低さ、自信のなさに気づいたのは、長いつきあいの中でごく最近のこと。

彼女はどうやら、年下の私に虚勢を張るたび、あとになってから、そのことをいたく後悔し、当面の間、私に会うのを避けているようなのでした。

そんな自家中毒みたいなことしなければいいのに…、と思います。

しかし、彼女にとって私を批判し、張り合う時間は、自分の方が立場が上なのだ、と確認でき、つかのま自己肯定することができる至福の時間だったのかもしれません。

「私は詐欺になど絶対にひっかからない!」と断言していた彼女ですが、どう考えても詐欺被害にあったとしか思えない体験談を何度か聞いたことがあります。

詐欺に遭った自覚が本当にないのか、たとえ自覚があっても自分が詐欺被害に遭ったとは認めたくない気持ちから、虚勢を張っているだけのことなのか…。

つまらない虚勢を張ることは、早いうちにやめた方がいいと思います。それは不自然な縛りだから。

縛りに囚われて、本当に大事なことを見失ってしまうかもしれません。

虚勢を張らず、自然体でいるためにはどうしたらいいか?それにはまず、他者を認めること。他者のコトバに耳を傾け、恐れのあまり批判でスルーしたりせずに、意見をしっかり受け入れることです。

相手のコトバにしっかり耳を傾けること、話している相手の表情、しぎさを読み取ること。

それをつづけることで、いつしか、他人のコトバに揺らがない核のようなものが心の内に宿るでしょう。

それこそが、あなたを真実の美へと導く、確かなる自信の芽生えなのです。

自分に自信を持つレッスン1〜自信のある人は他人を責めない!

自己肯定感の低い大人が増えているということを、以前にもお伝えしたかと思います。

自己肯定感の低い大人と言うのは、自己肯定感を持てずに育ってしまった、かつての子どもの成長した姿です。

なぜ、自己肯定感を持てぬまま、こうして大人になってしまったのか、と言えば、失敗を許さない、成功すること以外認めない、という親の厳しいしつけや態度に接してきたことに、その理由のひとつが見てとれるかもしれません。

高学歴、高収入、さらにルックスもよい。それなのに自己肯定感が低く、まったく自信がもてない、という友人がいます。

彼女と話をするたびに私が思うこと。それは他人に対しての態度がとても厳しく、だいたいにおいて批判的ということなのです

「彼女は本当に自分に自信がないの?自信過剰の間違いじゃないの?」そう考える人もいるかもしれませんね。

自己肯定感が低く、自分に自信がもてないという人が、他人に対して謙虚である、というのは単なる思い込み。

身のうちに確たるものがない、メンタルの脆弱な人ほど、自分を否定する気持ち以上に他人を否定する気持ちが強いのです。

さらに言えば、驚くほど他人に対して非寛容だったりします。

そうした、自分に自信のない人というのが、ときには人を傷つけるようなコトバを平然と口にし、別段、罪悪感も覚えない、というようなケースもけっして少なくありません。

人を傷つけて平然としているのは、みずからの優位性を誇示したいという気持ちのあらわれなのかもしれません。

コトバによって相手を軽んじているあいだは、わずかにでも自分の優位性が立証されているかのような錯覚を感じられるからです。

自信過剰でみずからを天才だと思い込んでいるような人は、「こんなこともできないの!?」などと他人を小馬鹿にするのが常である、というようなイメージをお持ちではないですか?

自信過剰でみずからを天才だと“思いたい”、その実、本当は自分にまったく自信がもてない人というのは、確かにそのように、人を小馬鹿にしたような態度をとりがちです。

これも自己肯定感の低い人のケース同様、相手を貶めることによって、その相手より自分の方が立場が上なのだ、という証明を手に入れた気になっているのかもしれません。

本当に心の奥底からの自信に溢れた人というのは、他者を傷つけることなどまず、ないと言えます。

他者を傷つける行為が、自分にとって、なんの利益も生み出さないことが分かっているからです。

自分をいうものを確立している人は、他者と自分を比較することをしません。なんの意味もないからです。

その自信のなさゆえに、他人を傷つけてしまう…。なにもいいことなしではありませんか。

私たちはもっと、自信を持たなければなりません。

自己肯定感の高い子どもを育てるために、私たち保護者は失敗に対し、もっと寛容にならなければならないのだ、と思います。

結果がどのようなものであったにせよ、それまでの努力をきちんと認めてもらうことができたのだとしたら、子どもはそれで自分は十分報われた、と満足でき、次のステップに進めるようになるのではないでしょうか。

これを自分自身に当てはめてみてください。

失敗をおそれない。結果がどうであれ、それまでの自分の努力を認める。親にはめられた枷を自分自身で壊すとき。

あなたの心の中に自信が生まれ、育ってきていると思います。

そして、自信は人を強くし、その表情を美しく輝かせるものなのです。

SNSにあげるためだけのランチや人間関係を考え直すとき

一時期よりSNSの利用が下火になっているとは言え、今も多くの人が、インターネット上でライフスタイルをアピールしています。

今日食べた料理、訪れた旅行先、偶然遭遇した有名人…。さまざまな記録と自分語りがオンライン上に積み重なり、イイネの数が増えていく…。

SNSを頻繁に利用することは、日々の暮らしが充実しているという証でもあるわけですし、改めて「充実してるなあ」と再確認するものでもある。

さらに、自分のライフスタイルが充実しているかのように見せかけ、装うことで、他人からの羨望を集めることだって可能。

SNSを楽しく利用する人が多数いる一方、SNSを巡る人間関係に疲弊、すっかり消耗してしまったという人もまた、後を絶ちません。

SNSを始めたキッカケは、友人から誘われたとか、仲間内の交友関係をより円滑にしたいという思いからだったのではないでしょうか。

親しくつきあう仲間内の数人がSNSをやっていたら、SNSをやっていない人は話題に乗り遅れ、仲間ハズレになってしまうかもしれない…!

めんどくさい、やりたくない、と参加を渋っていても、連絡がつかない、話題が共有できないなどの理由で、仲間から加入をせっつかれるというようなこともあるかもしれません。

いざ仲間入り!となったところで、そこはすでに温かな交流の場ではなかったりします。

そこで展開されているのは、ライフスタイルの優劣をつける判断であったりとか、自身のアップした記事を支持する友人・知人の数の競いあいであったりとか…。

共感を装ったディスり合戦(貶しあい)がいちばん堪える、と言っていた人もいました。

それは、たとえばこのようなことです。

「しばらく、フェースブックでみんなの動向見れてなくてごめん。実は旅行で伊豆に行ってたの!温泉まんじゅうお土産に買ってきたよ!」

「いいね、伊豆!私は沖縄に行ってきたんだ〜。沖縄の海、すっごくキレイだよ!ぜんぜん濁ってないの〜。まるでハワイの海みたい〜」

「いいなあ伊豆&沖縄!国内旅行、機会あれば是非したいと思ってるんだけど…、我が家はイギリスの湖沼地帯巡りでしっかり涼んできたよ!日本暑すぎ!」…というような。

そう考えると、友人関係とは言えど、少しも気の休まる場所ではなさそうですね…。

実生活でのつきあいだって、自慢ばかりしてくる人もいるし、他人の暮らし向きをあれこれ詮索して、比較するのが趣味というような人もいる。

しかし、SNS上のつきあいでは、ついつい、周囲の人と張り合って、自身のライフスタイルを盛ってしまいがちというところから、特有の閉塞感と面倒くささがあるかもしれません。

仲間内や知人に見せびらかすためだけの、ランチタイムや交友関係、そういったものに気詰まりを感じていたら、SNS利用にピリオドを打ってしまっていいのではないでしょうか。

純粋に、友人との交流を楽しむ。美味しいと思えるものを、美味しいと感じながら食べる…。

SNSにアップするための、かわいいわが子の姿を撮ることに夢中で、目の前のわが子の危険にまで気が回らなかった…。このような本末転倒な事例もあります。

SNSでライフスタイルを装うことに慣れてしまうと、そういう当たり前の生活がどんどん遠ざかり、SNSにあげるためだけにライフスタイルを演出しているような状況に陥ってしまうこともあるようです。

心もギスギス乾いてしまいます。そんな生活が“美しさ”のためになるとは到底思えません。

そのSNSの利用、交友関係、そろそろ断ち切る時期なのかもしれません。

キレイなママは怒らない?いえいえ、キレイな女性こそ怒ってる!

「お子さんを怒鳴ったことってありますか?」と質問されることがあります。怒っているイメージが想像しにくいのだそうです。

ライフワークとして実践している人形劇では、鬼婆や凶暴なオオカミ役を演じることもあります。それを見た方から、「こんなふうにお子さんを怒るんですね」と言われ、少々複雑な心境です。

「演技でお母さんが怒鳴ってるのを聞くと怒られている感じがする」と私の子どもたちも身を竦ませていたので、おそらくそれが真実なのでしょう。

怒らない子育てがよい、という教育論を見かけます。実践されている方も多いようです。

「子どものやることなすこと、腹が立って、すぐ怒っちゃう」「怒るとブスになるから本当は怒りたくないんだけど…」悩むお母様も大勢います。

しかし、怒らない子育てというのは子どもにとって本当によいものなのでしょうか?

私はそうは思いません。子どものためには、悪いことは悪い、とときには怒ってしっかり伝えた方がいい。

子どもが他人に迷惑をかけたり、危険な行動をしたとき、きちんと叱れる母親の表情というのは厳しく引き締まり、にも関わらず慈愛にも溢れ、私は美しいと感じます。

理不尽な仕打ちや、正直者が損してしまうような社会の仕組みに、怒りの声をあげる母親たちも美しい。怒った顔を美しいと思うのはその表情に一切ウソがないせいかもしれませんね。

叱る、と怒るは違う、という話をされる方がいます。「叱るは子どもの将来を思ってする行為。怒るは感情にまかせた自己満足」そんな説明を受けたこともあります。しかし、実際のところ、単なるコトバのレトリックなのではないでしょうか。

「アンタのためを思って叱ってやってる!」などと言い放つ親もいるようですが、実際には自分の大義名分や見栄のため、というのはよくある話。

そんな「叱られ方」は子どもにとって迷惑。とくに思春期の子どもは精神的には十分大人ですから、親の本心など見透かされています。

そのようなお母様はおそらく、幼少期にあまり怒ってこなかった、怒る必要性を感じなかったのではないでしょうか。では思春期になった今、なぜ自分本位に“叱り”始めるのか。

幼少期には自分の所有物、一心同体であるかのように思っていたわが子が、思春期になり、自我を主張しだして、自分の思い通りにならないことに腹立ちを覚えたということなのではないでしょうか。

本来なら、コトバが通じないと思った幼少期にも怒るシーンはいくらでもあったはず。しかし、自身と子どもを同一化していた母親には子どもがなにをしてもただ可愛くて怒る理由など見つからなかったのかもしれません。

他人に危害を及ぼしたから叱る。危ないからやめさせる。ただそれだけのこと。そんなときに、「わが子のためを思って…」などという大義名分が必要でしょうか。

幼いときほど、怒ってください。幼い子は恐い顔をして厳しいコトバで伝えないと「してはいけない」ことが理解できません。

「あらあら○○ちゃん、ダメよ〜」と優しい顔で窘めるだけでは、それがいいことなのか、悪いことなのか、幼い子には判断できないのです。

成長の過程で、子どもが物事をよく理解できるようになったら怒るのではなく、「諭す」「話し合う」という方向に徐々にシフトしていけばよいと私は考えます。

“美”のために必要なのは日々のお手入れと資金…ではありません!

美肌や痩身のためにエステティックサロンを利用することはけっして否定しません。「時間をかけて日々丁寧にお手入れすれば、いつまでもキレイでいられますよ」とサロンスタッフは言います。

しかし、それをつづけるためには費用もかかりますし、日々の忙しい中からサロンに通う時間をなんとか捻出しなければなりません。

しかし、時間を捻出し、サロンスタッフの手に委ねて数時間を過ごすと、鏡に映った私は確かに若干若返っているようにも見えます。

サロンスタッフは高級なスキンケア商品を手に、「お手入れはホントこれだけ!すご〜く簡単でしょう?」と連呼します。

正直、それを聞いて、「本当に簡単ね」と納得したことはなく、大抵の場合、「わ、めんどくさ〜!」等と思ってしまうのです。

サロンには最低でも月一度、できれば毎週通った方がよいと言います。

「頻繁にサロンに来られないようだったら、このスキンケア商品を使って丁寧に毎日ケアしてあげればよいお肌の状態がキープできます」などと言われます。

スキンケアに時間かけてる余裕なんかないよ!と思ってしまいます。

80を超える義母は資金にも時間にも十分な余裕があるので、高価なスキンケア商品をセットで揃え、サロンスタッフに教わった通り、丁寧に肌のお手入れしています。

義母の肌は80代と思えないほど、ピカピカのつるつる。高価なスキンケア商品も、エステサロンスタッフのアドバイスも否定しません。

その上ではっきり断言します。“美しさ”のために日々の丁寧なお手入れと資金など、一切必要なし!と。

プラセボ(偽薬)効果というコトバがあります。

信頼できる人物から、「効き目は確か」と言われると、ただのラムネにすぎないものを飲んでも症状が緩和された気がするというもの。

反対に、どんなに効果の高いクスリでも、「効かないに決まってる」と思っていたら効果が実感できない。

強いて言えば、前者はエステサロン信者の義母、後者は、「エステサロンに効果ナシ!」と言ってみたい私自身の姿です。

エステサロンの施術や、スキンケア商品の効果を実感するためには、まずそれを信じることが大事。

さらに言えば、「これだけお金を投資したのだから、効果が出ないはずはない」という盲信。信じる者は救われるのです。

反対に疑ってかかる人は、効果は出ていても、「こんなのはウソだ、まやかしだ」と思います。

たとえ目に見えてはっきり効果が出ようとも、「この鏡、ライティングが変じゃないですかぁ?」等といかにもこれは目の錯覚であるかのように言いがかりをつけてみたりするのです(私)。

こんな人に真心を持って施術するのは時間のムダ。

かつてエステサロンは私の義母のように時間と暇にあかせた有閑マダムか芸能人のもの、というイメージがありました。

最近はヤングママさんたちをターゲットにした低価格エステサロンが人気のようです。

「忙しい日々の中のささやかな贅沢」と思い、投資をすれば、お値打ちだと思います。

「エステってさぁ!もっとラグジュアリーな非現実的空間じゃないと効果が出たって気がしないのよね!」と言いがかりをつけるような人(私)はお金をかけてそういったサロンに行って下さい。

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どちらのサロンを選んだにせよ、サロンに行かない選択をしたにせよ、それが自分にとって心地よい選択なら、それこそがあなたに美をもたらす道なのです。

朝食と水分だけで“美”はゲットできない!キープもできない!

「カロリー摂取量が高くても一日の中で消費できてしまうから、きちんとした食事は朝だけで十分。あとはミネラルを含む良質の水をふんだんに飲んでいれば美しいプロポーションをキープできるわ」

そんなことをおしゃっていた自称・美魔女がおりました。まあ、確かにそうですね。カロリー消費という面においては。

一昔前に流行った食事摂取方法に“デクレッシェンド食い”というものがありました。

具体的にどういう方法かと申しますと、「朝たくさん、昼中くらい、夜少なめ」というものです。

これも先ほどの考え方と同様で、一日めいっぱいつかってカロリー消費ができる朝食はたくさん食べても太りにくい。

就寝に近い夜はカロリー消費も落ちているから、少なめか、あるいは食べない方がいい。

最近はさらに進化して、「8時間食い」というものがあるらしいです。起きて、8時間のうちに食事を修了する。あとの16時間は何も口にしない。

この食事方法はプチ断食などとも呼ばれているようです。

朝6時に起きるとする。そこから8時間経ったら、午後2時。午後2時からは食事をしないいうことになります。

午後2時と言えば、まだまだ真っ昼間。友人づきあいなどがあると、「私はダイエット中だから食べません」などと非礼してしまいそうです。

ダイエットというのは本来、規定食という意味で、通常の食事のことを指します。

もともとは肥満の人が健康維持のために食事制限をしたこと、つまり「無駄な量を食べないで本当に体に必要な量だけ食べる」ことを目指した行為。

そこから転じて、「美しく痩せる」というような意味合いが後世に加わったのでありますが、とりあえず、なにがなんでも痩せればいい、体重を減らせばいい、というのは大間違い。

いま、日本人は総じて“痩せ”の傾向にあり、その平均体重は、食料の乏しい時代のそれに匹敵するのだとか!

これだけ食料が豊富にある中で、必要と思える量を摂取できなかったと思しき時代と同等だなんて!それは、本来必要なものすら摂取していないということになるのでは…?

若いうちはそれでもいいのです。年を取ってきたとき、痩せにこだわりすぎていると骨粗鬆症などの重篤な症状に悩まされることになりかねません。

また、とある有名美容クリニックの医師によれば、年を取ってきたら、むしろ多少ポッチャリしていた方が断然若々しく見えるのだとか。

洋服の見栄えだけのために過度なダイエットするのはそろそろやめにしませんか。

どんなにバランスのよい食事でも朝食だけしか食べない、あとは水だけ補給すればいい、というのは、確かに痩身のためにはなるけれど、美のためにはならない気がします。

痩せること、すなわち、美しく痩せることだと勘違いされている方を多く見受けますが、同一に考えてはいけません。世の中に氾濫する痩身は「ただ痩せる」が圧倒的多数です。

言わせて頂ければ、朝食と水だけで美しくなるのは無理。美しさをキープすることはもっと無理。

ストイックなダイエットをするばかり、表情がこわばってしまう人、精神を病んでしまったという人も多数見てきました。

友人と食を楽しむ余裕を持ったり、ときには嗜好食を楽しむことが、心を豊かにし、表情をいきいきとさせることに繋がると思うのです。

私としては、美しさをゲットし、キープするためには、やはり三食しっかり取り、心の栄養のために、たまには少しだけハメを外すことをご提案します!

“美”のためにもっとも重要な三種の神器、「食と眠りと○○」!

より美しくなるために、美しさをキープするために、必要なことはなんだと思いますか。

もし、日々不摂生な生活を繰り返していて、顔色がすぐれない。体中にむくみがあるというようなら、ぜひとも今現在の食事内容を改め、休息し、睡眠時間を確保することをオススメします。

食と眠り、この2つは美へと繋がる大事なキーワード。あともうひとつ、項目を加え、美へといたる三種の神器と命名してみました。

この最後のひとつが、“欲望”です。

欲望の種類はなんでもいいのです。前のキーワードと被りますが、もっと食べたい!高級食材を食べたい!もっと眠りたい!と言ったものでも。

「イケメン男子とロマンチックデートして…、ムフフ」的なものでも構いません。

この欲望があること、ないことで、あなたの生き方はこの先ぜんぜん変わってきますし、美しさも違ってきます。

「私の欲望は、実現不可能なの。夢見るだけ損」というような人も中にはいるかもしれません。

たとえば、大豪邸に住みたいとか、イケメン俳優と結婚したい、とか。ま、世が世なら夢は叶わなくもないでしようが…。確かに可能性はきわめて低そうですね!

しかし、なにもないというより、たとえ実現不可能な欲望だって、「欲望なんかなにもない」というより、よっぽどいいんです。

できれば、その欲望は具体的にイメージした方がいいです。たとえば画用紙に欲望を描いて可視化してみるとか。

イケメン俳優とどうにかしたい欲望を持っているなら、イケメン俳優の画像と自分の写真を並べて貼ってみてはいかがでしょう?

べつに誰に見せるわけではありません。自分だけの楽しみと思えばいいのです。

好きなもの、やりたいことを具体的にイメージする、それが実現できたらよいな、と空想することは、美のためにとても大事なことなんです。

「もうちょっと眠りたい!」「有名店のランチ食べたい!」

このような欲望はわりとすぐに実現可能ですから、早くに達成感が味わえそうです。

目標を達成し満足が得られると脳の動きが活発になります。新陳代謝が高まるので、老廃物が排出され、肌つやがよくなり、ボディラインもスッキリして見えること、請け合いです。

実現不可能な欲望はこのように達成することが難しいです。どうしたらいいのでしょうか。

この場合、想像力を働かせることが重要です。

たとえば、大豪邸に済むのにふさわしいのはどのような人物か。自分がどうしたらそのような人物に近づけるか。

大豪邸にはどのようなものがあるか、そこで自分はどんな姿でいるか。

イケメン俳優にふさわしいのはどんな女性か。どんな服を着て、どのように振る舞うか…。

イケメン俳優と出かけたいのは、どんなところか。そこで自分はどのように注目されるか。そのときの姿は…。

このように具体的にどんどんイメージするのです。すると…。メイク方法、ファッションなどが少しずつ垢抜けてくるのがわかると思います。

とにかく、より美しくなるために、欲望は持ったもん勝ち!

それが実現可能だろうと不可能だろうとそんなことはまったく関係ないのです。

そして、食事と睡眠もおろそかにしないでくださいね!できる範囲でよいので。

“ストライクゾーン”の広さこそが美しさへのキーポイント

長期に渡り恋人のいない人に誰か相手を探してあげたいと思い、「どういった人が好み?」と尋ねたところ、ビックリするほど高い理想を持っていた!

…というのは、ドラマでマンガでお馴染みのシュチュエーション。現実にもなきにしもあらず、ですが。

しかし、本気で相手探しをするなら、趣味思考は極力限定しない方がいい。間口を広く、ストライクゾーンの範囲を狭めないことが良縁へ至る、ひとつの道です。

守備範囲が広ければ、より多くの人と出会える可能性が出てくる。「オヤジはダメ、不細工はダメ、高学歴でないとイヤ、高収入でないとイヤ」など、最初から条件を狭めてしまうと「そんなヤツいねえよ。いてもアンタとつきあわないよ。もっといい相手探すよ!」

ピシャリ、出会いの門戸を閉められてしまいかねません。ご注意を!

ストライクゾーンは広い方がいい、というのは、異性との出会いに限ったことでなく、美全般に関してもまず同様のことが言えます。

まずは友人について。「ああいう人は苦手」「あんな人とおつきあいしたくない」などと言っていると、交友関係はどんどん狭まってしまいます。

どんなに心地よいぬるま湯の人間関係でも同じ人、同じ場所だと、いつしか淀んでくるもの。新しい世界に旅立つには許容する範囲を広げていかねばなりません。

キャパが広く、受け入れ体勢が万全な人のところには、あらゆるジャンルの人、情報がどんどん集まってきます。心の成長を促し、美への道が拓けてくるのは当然ですよね。

ストライクゾーンの狭い人というのは、あらゆることに関して守りの傾向にあることが多いものです。

たとえば、食べものひとつに関しても、新しい食の提案、初めて食べるものに対し、難色を示し、それをすすんで口にする人を気味の悪いもののように扱ってしまうとか。

そんな人と一緒に食事していたら、ゲンナリしてしまいますよね。

また、ファッション、メイクに関しても非常に保守的で自分と異なる感性を持つ人を認められません。

新しいことを取り入れてみようという発想もなく、もうとっくに自分には似合わなくなってしまっているスタイルをいつまでも変えられなかったりします。それはとても残念なことです。

「これとこれをしなければならない!」という強迫観念のようなものを持っていて、それが遂行できないと周囲に分かるほどあからさまに不機嫌になってしまうこともあります。

ストライクゾーンの狭い人というのは、周囲に対しても、自分に対してさえ、寛大な気持ちが持てず、その狭いキャパ同様、自身の心の成長の可能性を狭めてしまい、本来なら無限に広がるはずの美への道を閉ざしてしまうかもしれません。

いくつになっても好奇心旺盛であることは、年老いてなお魅力的でありつづける人たちの特徴のひとつでもあります。

今までチャレンジできなかったことにチャレンジしてドキドキしたり、新しいもの、初めての人との出会いウキウキすることは、心を豊かにし、あなたの表情を輝かせます。

自身のストライクゾーンが狭い、と自覚のある人は、少しずつその枷を外していけるとよいですね!

いつも成功するとは限らないし、イヤな思いをすることもあるかもしれないけれど、それもすべて成長のため、美へと繋がる心のレッスンなのです。

身内が適切なアドバイスばかりくれるとは限らない!敵の塩も参考に

本当に信頼できる友だちは何人いますか?あなたはその友だちのどういったところに好感を持っているのでしょうか。

「あなたは可愛いし性格もいいしオシャレでセンスがよくてホントに羨ましい。あなたみたいな素敵な人と友人でいられることが私の自慢なんだよ!」なんて。

思わず頬がゆるんでくるようなコトバを始終言ってくれるような友人。たとえお世辞だとしてもやっぱり嬉しいじゃないですか。

生きる意欲も湧いてきますし、外でちょっとイヤなことがあっても、「彼女がいるから大丈夫!彼女が私を認めてくれる」とポジティブになれます。

自己肯定感の低い人は、ぜひこうした人を友人に持つべきだと思いますね!

しかしながら、身内でガッチリ固められ、いつも「あなたは悪くない」「あなたが最高」という世界で暮らしているということは、裸の王様であるのと一緒。

傍目からは、「なんなんだろうなあ、あの人たち」なんて思われていることでしょうし、狭い価値観でがんじがらめになってしまっているので、身内以外の人との交流はどんどん難しくなってしまう。心の成長を妨げてしまうのです。

自分にとってぬるま湯のように心地よい人間関係であったとしても、ずっとその場から動かないでいたら、いつしか、そのぬるま湯はどんどん濁ってくるもの。

友人の優しさ、自分への賞賛はまったく変わらないはずなのに何かが違う…。ちっとも楽しくない。

しかし、そこから一歩、勇気を出して踏み出てみたところで、ぬるま湯に慣れた体は他に適応できないのです。もう一度古巣に戻るしかありません。そうして、マンネリズムのルーティンをつづけていくことしか…。

損得のない友情から発した無条件の承認、賞賛は、あなたを幸福の渦の中に包みこんでくれるでしょう。

友人のいない人生は、恋人のいない人生より何百倍もせつない。それが私の持論ですから、友人はいるに越したことがない。絶対に。

友人とは、一緒にいて心地よいことも大事ですが、「言いたいことを言い合える」というのも必要なのかな、と思います。

ズケズケ欠点をあげつらうのもなんですが、しかし、ときに辛口なアドバイスが苦境を救うことだってあります。

自分を絶対に否定することのない、そんな素晴らしい友だちに囲まれているとき、周囲の耳障りと思える意見にちょっと耳を傾けることが案外重要なのかもしれません。

それを私は「敵からの塩」と命名しました。傷口にすり込まれる塩はイタイ。しかし、塩は消毒になり、人間の生活に必要不可欠なもの。

意地悪に聞こえる(本当に意地悪で言ってることかもしれない!)、ライバルや、気が合わないと思う人の発している自分への評価。誹謗、中傷。

それを受け入れるのは、ものすご〜くイタイかもしれないけど、それに耳を傾けてみる。

発想の転換をしてみる。「どうしてあの人は、そんなことを言っているのだろう。なんの根拠もないのに」

「根拠、実はあるのかもしれない。私にも思い当たる節はあるのかな…」「いやいや。やっぱただのやっかみだよね!」

そこには優しい友だちの温かなアドバイスからは得られない、よりよい人生に向けての大事なヒントが詰まっているかもしれないのです。ライバルが意図したことではなかったにせよ。

そのことはあなたの心の成長のための糧となるでしょう。そして、その成長こそが、また一歩、あなたを真実の美へと近づけることになるのです。

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